■プログラム/卓話
アイコムティ株式会社 水居 徹 会員
バリバリの文系の僕がなぜITの会社を経営しているのか
みなさん、こんにちは。
なぜいまさら、私の卓話?と思われる方がおられるかもしれませんが、実は初めての卓話となります。
いつもいろいろなところでしゃべっていますので、卓話は終わっていて当たり前だったのかもしれません。
さて、そこで卓話ですが、内容は私の身の上話です。今日に限り、我慢して聞いてください。
ほんとうは謎に包まれる水居がよいのかもしれませんが。
実は1998年に早稲田大学の理工学部で話した内容が今日の卓話です。早稲田は、当時理工学部の教授で東大名誉教授の大須賀節雄先生に招かれ、社会人による授業コースの一人として担当、20年間毎年、年に1回の授業をしていました。そこで、就職、起業あたりを話してほしいということでまとめたのが今日の話です。
大須賀先生は、コンピュータについての学問では多くの業績を持つ方で、日刊工業新聞社とりそな銀行の中小企業振興財団が共催する、中小企業優秀新技術・新製品賞の審査員をされており、日刊工業新聞社の日刊産業研究所の下請け仕事をしていた私を審査員として招いていただいた方です。
そして、また大宮高校の先輩から声がかかり、大宮高校のハローワークという職業講座に招かれました。ハローワークはPTAが主催するもので、OBが20名ほど秋に授業を2コマ受け持ちます。2009年、2010年にお声がけいただき、ちょっと間があいて2015年からは毎年担当させていただいており、今年も10月2日に開催されます。通算9回目となりますが、私はとても楽しみにしています。後輩ということもありますが、若い人たちに少しでも私の経験が少しでも役に立てばよいなということで、やりがいを感じています。
では、本編に入ります。最初に自己紹介をします。1959年、昭和34年生まれです。天皇陛下は学年が一緒です。私の小さい時の写真は粉ミルク会社のノベルティのアルバムだったりします。大宮高校を出て、名古屋大学に進みます。文学部です、タイトルのとおり、文系です。中国哲学科を経て東芝に入ります。その後、東京で独立、1995年に宮崎の今の会社を設立し。2001年くらいから宮崎が中心となります。いまだに東京に家族はいますので、単身赴任20年になります。寂しい単身赴任です。
宮崎で仕事をするようになり、困ったのは、私にとって、宮崎は誰も知らない未知の場所だったということです。宮崎を出たのが18歳、宮崎に戻ったのが42歳ですから、もう県外のほうが長いわけです。そこで誘われるままにいろいろな団体に所属しました。最初は経済同友会でした。エースレーンの藤元さんに誘われました。そこで加賀城建設の加賀城さん、宮崎総合学院の川越さん、坂下組の坂下さんらと知り合いました。また、商工会議所にも入ることとなり、実は東京で東京商工会議所の港区支部のインターネット講座などを担当していたなどもあり、積極的に活動に参加、後に最年少でしたが1号議員に推挙されました。倉掛さんというすばらしい専務理事がおられて、ほんとうにいろいろとお引き立ていただきました。1号議員も、私のような、農家生まれの人はいません。伝統的な企業の方ばかりです。経済同友会も飛松代表幹事(当時、宮銀当頭取)に、君のような新しい経営者がなるべき、と幹事のひとりとして推挙いただきました。
たくさんの先輩方に導かれ、宮崎で仕事をすることとなりました。もちろん、ほかにもたくさんの目をかけていただいた方がいます。
そういった縁でロータリーにも入ります。
私は好奇心が60を超えても旺盛です。とはいえ、ここ数年は趣味は、旅行、カラオケ、海外ドラマ鑑賞です。旅行は島が好きです。石垣にはこの16年くらいはまっています。
海外ではラスベガス、ハワイ、ソウルですが、すべてガイドができるくらいのレベルに到達していますので、いつでもお誘いください。
カラオケは、今のマイブームはYOASOBIです。
私の祖父母は宮崎の神宮の西側で農家でした。祖父母には娘二人いましたが、妹は終戦直前に風邪でなくなったそうです。薬があれば助かったそうです。そのため母は一人っ子でした。父親は三股町の没落した家の次男で、見合いをして水居の家に入ることになりました。
就職先がない時代で、ようやく延岡の農協に宿直所に住み込みで就職を得て新婚生活がはじまったようです。母親にしてみるとまったく知り合いも友人もいない中での子育てはたいへんだったようで、下に弟が二人できたときに、私は宮崎の祖父母に預けられました。
祖父母のもと、農業の合間の子育てなので、私は一人でいることが多く、無口で引っ込み思案のおとなしい子に育ちました。もちろん祖父母はとってもかわいがってくれました。庭にブランコ、竹でできたジャングルジム(滑り台付き!)などを作ってくれ、田んぼの土を取ってきて粘土を作ってくれたり、時計のエンジン部をどこかからか持ってきてくれたりしました。
その後、延岡の両親に引き取られ、延岡で小学生となります。その後、宮崎市農協に空きができ、父親は転勤します。私たちも宮崎の実家に戻ります。
大宮小学校に転向しますが、延岡なまりがあり、それをいじられることがあり、余計に地味な子どもになっていきます。
小学校5年の時に、母親がフジテレビのクイズ番組に応募し、それに出ることになります。放送の翌日、学校に行くとほぼ全校生徒が教室に私を見に来ました。その結果、いつのまにか人気者になり、みんなが一種のリスペクトをしてくれるようになりました。
すると、自分に変化が生じます。かけっこは万年ビリでしたが、6年生の時には6人中3位になります。初恋もこのころです。自分に生まれて初めて自信がついたのかもしれません。
そのせいか、中学時代はあばれていました。今日は割愛します。
受験がありましたが、大宮高校附属大宮中学ですので、無事入学します。ところが油断がありました。数学1のカリキュラムが大きく変わったんだそうで、そのため、高校入学前に特別な講座があったのだそうです。やんちゃな私はさぼっていました。高校入って因数分解ができず、成績は学年で最下位のほうでした。その代わり、国語は大得意で、旺文社模試で偏差値が英語60数学30国語140というわけのわからない結果もありました。
当時、文学にあこがれ、詩や童話を書いていました。大学は文学部と決めていました。最終的には名古屋大学に入るのですが、当初は京都大学を目指していましたが、9教科ということ、次年度から共通一次だから浪人は不利ちうことで、ひとつ落とせということで、名古屋にしました。
実は、京都がだめなら早稲田という思いがありました。両親は、私立は経済的に出せないと言っていましたが、試験だけは受けさせてくれ、力試しで、とお願いをしました。
(通れば行かせてくれるだろうという期待もありましたが)実際早稲田受験に行きましたが、遠縁の社会人の方に面倒を見ていただき、羽田出迎え、早稲田の試験場視察(彼はOBでした)、宿泊も彼のアパートでした。試験前夜、王将で晩御飯を食べ、部屋に戻り、彼はビールを飲み始めました。リラックス!ということで少し飲みました。
目が覚めると翌朝、彼はまだいびきをかいていて、時計を見ると11:37でした。彼が大学に電話をしてくれましたが、もちろんもうだめで、東京観光して帰りました。
宮崎空港に迎えに来た母が、どうだった?と聞きました。「やっぱ早稲田はむずかしいわ!」と答えた私は、結局、母が亡くなっても秘密にしています。
名古屋、最近ですと下品な市長が有名です。みなさん、彼の言葉遣いは名古屋弁ではありますが、あれは今は使われない、港湾地区の下品ななまりです。名古屋の人はあんな言葉遣いをしません。見た目とかそういうので入るバカな政治家です、彼は。間違えて期待してみんな票を入れましたが、再選はありえないおっさんです。
食べ物で苦労を最初はしましたが、今では第二の故郷です。アルバイトで氷の配達をしていました。製氷機の無い時代ですので、夜の店は氷を買っていました。最大で16貫目、60㎏を持って配達します。当時の私は仮面ライダーのように腹筋と胸筋がすごかったんです。
4年間そのバイトをしましたが、卒業年に新しくオープンしたスナックがありました。若いきれいなママで、夏は暑いでしょうとお絞りをくれたり、冬はあっためた缶コーヒーをくれたりしまた。今週でバイト終わりです、お世話になりました、とあいさつしていたら、最終日に松坂屋の包装のハンカチをくれました。
余談ですが、その20年後、名古屋の錦(銀座のようなところ)で取引先に連れていかれたクラブで彼女と再会します。彼女はそのクラブと飛騨牛の和食屋のオーナーでした。
すごいのは私を覚えていたことです。あの青のウインドブレーカー来ていた子!と彼女は言いました。
東芝に入ることになり、入社1か月前に憂鬱になりました。もともと持っている地味な部分が首をもたげてきたのです。
ある先輩から、友だちを作れとアドバイスされました。入社して横浜磯子の寮に入り、川崎の研修センターに通います。同期300人がクラス分けして講義等を受けるのですが、そこで、私はたまたま同じ机にいた同期を誘いました。「帰りに飲んでいかん?」名古屋なまりでした。
相手は変な顔をしますが、みんな見知らぬ同期ばかりで、友だちがいない状況でしたので、意外とすんなりとナンパは成功したのです。
川崎の砂金通にある養老の瀧でビール1杯に焼き鳥ついて550円で友達が増えました。当時研修生の写真付き名簿があり、夜、寮に戻って、名簿に、知り合ったら〇、会えば話をするくらいになったら◎をつけるようにしていました。当初の目標は1か月で100人でしたが、結果50人でした。ところが研修の終わる2か月後、◎は200個になっていました。自分が誘わなくても友人が友人を連れてくるのです。
数年後のことです。私は東京都立大からコンピュータシステムを受注します。ところがPCとホストを接続するソフトウェアは未開発でした。開発予定ということで提案したのです。(ここが文系なんです)受注した以上、開発を前倒ししてもらう必要があります。納期が迫る中、直属の課長はおまえのせいだと言い始め、開発をしている工場の部長にお願いをしてこいと言います。いや、課長も一緒に、というと、E部長と俺は合わないから行かない方がいいと妙な言い訳をしていきません。
なんで2年目の俺が?と思いながら、府中の工場に向かいます。府中工場はどちらかというと電車とかエレベータとかをやっていて、とても大きな工場で、その一角になるソフトウェア部門に行くには工場の門から20分ほど歩いてかかるほどでした。
フロアの受付に電話があり、それをとってE部長を呼び出します。実はE部長はそのフロアの奥に座っていて、見えています。電話をとった前の席に人が部長に振り返って言葉を交わしていますが、部長は手で✕を。電話の人は、すみません、いま席を外していますと嘘を言います。
私はしばらく時間をつぶしてまた電話をしますが、同じことでした。廊下に出て、どうしようか、もう帰ろうかと考えていた時でした。え、水居くん?と声をかけてきたのです。川崎での研修時代、1割の30人しかいなかった女子の同期生の一人のYでした。とくによく飲んでいた一人だったので、懐かしいと同時に驚きました。
どうしたの?本社だよね、という彼女の言葉に、実はこうこうでE部長に会いにきたけど、会ってくれないという話をすると、Yは、わかった、ちょっと待っていて。と私は応接室に案内しました。すると数分後にそこにE部長とYが来たのです。E部長は、なんだ、Yの同期なのか?と切り出します。Yが私のことを同期のまとめ役でとてもまじめなんですよと紹介。YはE部長の秘書でした。E部長はYがお茶を出して退出すると、Yには頭があがらないんだよ、しょうがないから来たぞ!と。
あらためて受注状況の説明と、事前のネゴなしに提案したことのお詫び、都立大の教授の期待値がとても大きいことを伝えるとE部長は最後、わかった、しっかりやる、安心しろと言ってくれました。
その後E部長は本社に転勤、私とは飲み友達となりました。
パソコン営業部に配属され、売れないパソコンを売ることになります。NECの商品は最大7割のシェアを持っていました。東芝は2%もなかったと思います。在庫掃きたてのため、応援販売として秋葉原の店に立つことになります。ある量販店の店舗はユニフォームや名札までくれました。その店のその時の売れ筋はシャープでした。MZ80という機種でしたが、ほとんどが指名買いの客です。私は東芝ですが、お客さんから見れば店員です。MZの話をされると店員に引き継ぐのですが、店員も空いてない場合もあり、しかたなくシャープMZの説明をします。競合機種なので、実は詳しいわけです。私の説明で納得して買う人も出てきます。この時に、商品の魅力はとても大事なのだと思いました。その時の東芝は価格を安くしたり、ヘルパーがべたぼめしたりして売っていたわけです。なにも言わなくても売れる商品が強いというのがよくわかりました。
夏の商戦が終わり、シャープの秋葉原営業所長が表彰状を持って来店しました。月間で秋葉原全体で一番シャープを売ったということで私が表彰されたのです。
店長のいたずらで、シャープには東芝の人間であることを伏せていたようです。さすがに表彰は辞退しましたが、所長にはビールをごちそうになりました。
東芝では在職中に4つの表彰をいただきました。PCの拡販に対してです。途中から営業部から営業推進部に回り、販売網や商品企画に関わるようになりました。そこでダイナブックが誕生します。NECを抜いてノートパソコンでシェアを獲得します。ところが、上司たちはそれで調子こきます。
市場へのチャレンジをやめて保身に走ります。いろいろあり、私は東芝をやめます。その前の年に父親が海で遭難します。いまだに帰ってきません。父親が52歳でした。それもあり、自分の人生、自分で船を漕ぐことを決断しました。
取引先や親しくなっていたソフト会社からお誘いがありましたが、自分で船を漕ぐことで会社を設立しました。
ソフト会社はまだ小さいところも多く、そこの販促の仕事をいただいていました。マイクロソフトもソフトバンクもまだまだ小さい会社でした。
ラスベガスでCOMDEXという展示会が毎年開催されていて、それに行くようになっていました。
最大で20万人を集めたCOMDEXでマルチメディア、そしてインターネットに出会います。
インターネットビジネスには1994年から特化するようになり、当初はインターネットサービスプロバイダ(ISP)設立支援をおこなっていました。その延長で宮崎に来たわけです。
途中、三重県の地域情報化の仕事を受託します。約3年間、三重県に通いました。実はこの時、三重県はシャープの亀山誘致など企業誘致で有名になっており、企業誘致のメンバーとも交流(隣の部署だった)したことが、のちの宮崎県の情報通信作業誘致につながります。
1995年に宮崎インターネットを設立、これは大宮の後輩である2人と、陸の孤島が情報の孤島になるのはいやだねということでスタートしました。
以来、地域情報化を旗頭にいろいろな展開を行なってきました。
2002年には南九州初のデータセンターを開設、法人ユーザが中心になります。いわゆるサーバーがメインのビジネスとなりました。
結局、途中から失敗が続きます。
福岡新市場に上場を考えたのが一つのミスです。上場のためコンサルティングに年間3000万円の経費がかかり、売り上げ拡大のため東京支社開設でそれが裏目に。コンサルの指導で資産の除却を3000万ほど行いました。ソフトウェア開発を県の補助金で行ったのですが、これは上々の会計基準では、除却しないといけなかったのです。財務状況がひどくなり、宮崎出身の社長が率いる東京の会社と合併します。
これが大失敗でした。二人代表で東京側を社長に、私は専務となりました。当社を存続会社にしたので、彼らの借金もすべて引き継ぎました。これが最大の失敗でした。営業方針もでたらめで、営業すれば売れるという論理で逆にいうと商品戦略は行き当たりばったりでした。韓国製のLED照明を宮崎で同意なしに展開し、不良品率6割と最悪な結果となり、社名にも傷がつきました。そこで、合併解消を申し出ました。分社して債務も分割すべきでしたが、1年近くかかると専門家に言われ、スタッフのモチベーションを優先させ、東京側の彼らに出てもらいました
。売上は2億4千万、借金が同額という会社になりました。東京側の在庫品(ハードウェア)東京側が勝手に持ち出していました。その分2000万円が寄付となり、マイナスとなりました。それでも、再び社長となり、進みたい方向に進めるようになりました。残念なのは当時の社長を嫌って数名の優秀な社員がやめたことです。
しかし、結局、倒産の危機が訪れました。
事業を一部売却し、人員もリストラしました。負債が大きく、借金を返すために働ているような状況でした。すべてやめてしまうことも考え、ある先輩に報告に行きました。彼は私のロータリーの推薦人でした。ロータリーも当然やめることになると思い、報告に行ったのですが、彼はちょっとまて、まだ方法はあると、商工会議所の再生協議会を紹介してもらいました。そこで事業再生計画を立て、メインバンクも変え、事業も利益率の高いものを中心とすることで、売上は激減しましたが、6期連続黒字を達成、なんとか生き返りました。
起業を考えている人から相談をうけることがあります。私は自分のしくじりの経験から、特に資金調達、融資については慎重になれと言っています。借金は返すべきものですが、口座にお金が入ると、自分のものと勘違いするのです。
これから、当社は次の50年、Next50を目指し、新しい事業を開始します。(50年後は111歳です)
また、国を挙げてDXが進みます。当社をDXを支えるIT人材の育成と、企業がDXを推進するためのIT業務の代行を新しい事業として展開します。
第二創業のようなつもりで推進する予定です。
さて、まとめです。
私をこれまで支えてきたのはなんでしょうか?
それは人脈です。いろいろな人に支えられてきました。助けられもしました。今度は私が恩返しする番だと思っています。
そして宮崎に生まれたことにも感謝です。豊かな自然とおいしい食材に恵まれ、すばらしい人々とふれあえる、ふるさとだからかもしれませんが、宮崎が大好きです。
最後に、私は自分の人生のこれからをみなさんの役に立つものにしていきたいと考えています。自分が一所懸命仕事することで、取引先が成長する、企業のIT人材を育成することや、IT業務をお手伝いすることで、企業のDX化が進んで生産効率が上がる、これらが私の職業奉仕になると考えています。
ロータリーの活動もそうです。39歳の時にロータリーに入り、多くのロータリアンに学びました。これからは若いロータリアンを支えてていきたいと思っています。微力ですが。
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